14 歳の栞

他者の人生をエンターテインメントとして消費するという原罪について考えるとき、『14歳の栞』という映画を思い出す。実在の、ある中学のひとつのクラスに制作班が密着するというスタイルで、たしか「青春リアリティショー」と銘うたれていた。学園もののドラマが好きなおれは勇んで観に行ったのだが、いち生徒をめぐるエピソードに倫理的問題を感じ、自分がこれを「観たい」と思ったこと自体がある種の「正しくなさ」に加担している気がして悔しかった。SNS上の感想がほぼ絶賛の嵐であることも気持ち悪いと思った。あの映画をなんの留保もなしに「おもしろい」とか「感動した」とか言えてしまうことの背後には、自分だけがこの世界のプレイヤーであって他者は自分にとっての世界を豊かにするピースにすぎないという態度があるような気がして、それが不快ですらある。
では、あらゆるドキュメンタリーがそうなのか?芸能を面白がることのなかにその態度は内在していないか?ではフィクションは?と考えるとき、自分ではまだ明確な線を引けない。そして、それはそのまま、自分の人生をどのように受けとめるか?人生のなかで出会ったひとたちをどう受けとめるか?という問題になっていく。あのひとと会わなくなってから考えたり思い出したりしているあのひとは、あのひとそのものなのか、単におれの分身にすぎないのか? やはりまだ、なにもわかっていない。