最後の扉は開けたままで

 カポーティの短編集『夜の樹』を読んでいて、「最後の扉を閉めて」という作品にさしかかり、これがすごすぎて先に進めなくなった。田舎からニューヨークに出てきてそれなりにうまくやっていたであろうウォルターという男が、ほぼすべてを失うことが確定した直後の描写は次のようなものだ。

そのとき突然、鏡にうつった、床屋の前掛のように青ざめた自分の顔を見て、彼は、ほんとうは床屋で何をしてもらいたいのかわかっていないことに気づいた。ローザのいうとおり、自分は汚ないことをした。彼はいつも自分の失敗を喜んで告白した。告白してしまえば、失敗がもう存在しないように思えたからだ。階上へ戻り、机のところに坐った。身体の内部で出血しているような感じだった。そして彼は神を信じたいと強く思った。(川本三郎訳「最後の扉を閉めて」『夜の樹』新潮文庫p.127)

「そして彼は神を信じたいと強く思った」へのスピード感がすごいけどこれはものすごくリアルな絶望の描写だと思った。出社してPCを起動し、中学の同窓会の関連でfacebookを開いたあと、直近に仕上げた仕事をあのひとに見てもらいたいと思って手紙を書く前にあのひとの写真を見たくなって検索したら見つからなくて、いろいろやって見つけたらあのひとのアカウントは、おそらくは結婚後の新姓と旧姓が併記された状態になっていた。視界が物理的にゆがんで呼吸が苦しくなった。同じフロアにいる、いつも出社の早い先輩に気づかれないようにトイレに行って泣いた。数か月前にも、自分が出会う前のあのひとの写真を見たくてfacebookを見たと思う。そのときはこうじゃなかったはずだ。でもそれがいつなのかわからない。わかっても意味はない。意味がわからなかった。それなりに切羽詰まった仕事を抱えていたから帰ることはできない。デスクに戻ってPCのキーボードをいじる。もしかしたらまた会えるのかもしれないということだけがあのひとと別れてからのおれの希望だった。でももうそれはないんだと思った。そのときおれはきっと神を信じたかった。いつか寝物語であのひとが言ってくれた、「生まれ変わったらあなたと結婚したい」という言葉を信じたかった。
 おれはあのひとといっしょにいるとき、がんばっておもしろいことを言おうとしなくてよかった。あのひとはおれの「ふつうなところが好き」だと言ってくれた。それがうれしかった。ほんとうにうれしかった。
 

 僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
 逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。(東畑開人『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』p.57)

 この年末年始で、おれはいま「いる」ことに耐えられないということがわかった。自分が「いる」ことのできる場所をつくるために、「人生」を再開しなければならない。本気で。